「人間は彼が食べるところのものである」 (ルードヴィヒ・フォイエルバッハ、全集第三巻、舟山信一 訳)
「いにしへ もろこし(中国)に食醫(医)の官あり。
食養によって百病を治すと云(いう)。」(貝原益軒、益軒全集全八巻之三)
九州栄養福祉大学設置準備室長
(現 九州栄養福祉大学学長)
室井 廣一
九州栄養福祉大学は食を通して福祉を実現しようという教育思想をもった管理栄養士養成専門大学です。 栄養福祉とは文字どおり「食」を通して福祉を実現しようという方法意識をもった実践理念を意味します。 本大学が提唱する教育理念であります。
我々が構想する大学は、この栄養福祉の理念を修得し「食医・食の番人」的機能を果たす管理栄養士養成を建学の理念にしております。
我々が主張する教育上の理想概念である「食医」とは、食指導を通して人類社会の福祉(健康と幸福)に貢献しようとする方法意識と使命感を有する人材のことです。 また、「食の番人」とは食スペシャリストの立場から正しい食の道を探求し食生活、食環境、食材料に警鐘を発し人類社会の福祉に貢献しようとする使命感を有する人材のことを意味します。
この二つの具体的・実学的な教育目標・理念を目指して「食」専門大学が二一世紀の元年にスタートします。 自己の将来の役割、専門、アイデンティティということに「こだわる」という方は、是非、新世紀元年の我々のメッセージに耳を傾けてください。
新世紀の少子・超高齢化社会という未曾有の社会構造の出現、生活習慣病の蔓延、環境問題等という大きな人間福祉の課題に応えるためにこの大学は創造されつつあります。 明確な方法意識、使命感、着実な職業意識をもった大学構想理念を見つめてください。
それでは、我々の教育思想である『栄養福祉』の世界、メッセージを受信してください。
※ 尚「食医」という言葉は中国の古代国家・周王朝の官制記録『周禮』に載っているものを参考にしています。 (『周禮 上・下』周哲點 林道春跋 菜根出版 昭和51年 九州大学図書館所蔵及び本田二郎『周禮通釋 上・下』秀英出版 昭和54年等を参照)
栄養福祉という学的概念で語られねばならぬ大切な内容は概略列挙すれば以下のようになります。
この概念が求める意味は明確であるし明確であらねばなりません。 一口に言えば「食」を通して人間の福祉を実現しようという実践理念であります。 「食」を通してという明確な方法意識を持った学的実践概念です。 単なる栄養と福祉という接合概念でも、境界概念でもありません。 ここで実現する福祉とは、「食」を通して健康を維持、回復、増進し、幸福になろうという事です。 そしてその実現しなければならない内容は単に個人的次元だけでなく社会的意味性格を持っているという事です。 あえて福祉という言葉を使用する理由の一端はここにあります。 そして一方では、その理念のもとに浮上してくる一連の意味領域、対象領域を把握、整理してみようという学的志向概念でもあります。 栄養福祉という視点から一連の個人的、社会的、国家的各レベルの諸活動、実践主体、思想、科学、食指導、食療法、制度、組織、歴史、教育、思想史等が展望可能となってきますが、それらを体系的に踏まえる事によって当該概念の更なる具現化を希求しようという認識でもあります。 以下、項目別に大枠を述べてみたいと思います。
社会福祉、保健福祉、医療福祉の基本に食と栄養を据える必要が在るという考え方です。 特に4人に1人が65歳以上という少子・超高齢化社会が到来する社会構造の大変動の中で、食を重視した福祉を創造しなければならないという認識です。 経済の高度成長が過去のものとなり、少子・高齢化、しかも世界一の高齢化社会到来という中で、生活習慣病が蔓延し、糖尿病患者だけでも60歳代の男性では約5人に1人という状況を呈しています。 しかもこういう病気から子供のアトピー症、アレルギー症まで、広くその原因の重要な因子として食生活がある事も学問的に明らかになりつつあります。 21世紀初頭には30兆円を超えるという国民医療費も誰かが負担して行かなければなりません。 考えられる道は薬重点医療から食指導、食療法へ、65歳を過ぎても病気にならずに働けるような元気な老後を食生活で作り上げるという長期的食福祉戦略ではないでしょうか。 こういう時代認識の中で本当に必要な事は、食を通して福祉を実現するという地に着いた福祉の方法で、人間の健康を回復、維持、増進させる食医的機能を果たす人材の養成ではないでしょうか。 食指導、食療法という学問的に裏付けられた専門的方法を持つ栄養福祉の実践主体が要求されてくるのです。 今求められているのは、食・医・福祉をつなぐ発想の基軸であり、太い絆なのです。 3点を結ぶ現実形成力なのです。 この3点を結ぶ認識力と実践力の社会的形成なのです。
また、こういう食を福祉の基本に据える考え方は、一方で青少年の健全育成と栄養福祉、人心の安定と栄養という視点からも大切になってくるでしょう。
以上のような認識に立てば食を基礎とした人間福祉という考えを社会的立場で考え、採り入れる必要が出てきます。 それは単に国民一人ひとりの視座の転換という事だけではなく広く社会的国家的立場でも考えられねばなりません。 単に栄養士の実践とか、個々人の民間療法、健康に関する雑誌情報取得という個々的文脈から社会生活、人間福祉の基礎に栄養福祉という考えの土台を据え付ける時が来ているのです。 そういう土台の上に立って眺めてみますと、栄養福祉という実践理念の活動対象の見通しが概略みえてきます。 これまでの個々的実践、食嗜好、グルメ志向、「料理の鉄人」・食通的世界等とは異なった社会的視点であります。 社会的立場にたって食を考えるという視点であります。 それは国際的立場に立って考えるという視点にも発展していかなければならないものでもあります。 それがここで栄養福祉という一つの理由でもあります。 もちろんこれまでもそういう立場に立って、例えば、栄養改善普及運動や食糧管理制度が動いてきているわけです。 そこで、ここでの問題は、個々的実践と社会的立場の双方の視点を踏まえて栄養福祉という概念を考えて行くという事なのです。 双方の流れを交流させパイプを太くするという事です。 太く大きな流れを作って行くという事なのです。 人間を元気にする様々なこれまでの思想、科学、実践を食という視点から一まとめに展望して生活全般を食という視点から見直し把握し展望するという事も大切な事なのです。 要するに栄養福祉という実践理念を実現して行くのはあくまでも人間でありますが、その活動には個人的立場と社会的立場の両方の文脈があり、それを食の全過程としての視野の中に統合していくという事が大事になってきているという認識なのです。
何よりも栄養福祉という概念は実践概念でありますから、この実践主体を社会的に養成する、そして社会のいろいろなレベルで主体的に活動させるという事が大切です。 さらにその理念の方も社会に浸透させなければなりません。 個人的実践主体の養成も大切ですが社会的に養成するという事も大切であります。 そこに栄養福祉に果たす我々のような管理栄養士養成校の役割もあります。 栄養福祉という概念はそういう実践性、運動性、社会性も持っています。 例えば、私達は今年からはじまった介護保険制度に何等かの形で栄養士がホームヘルパーの役割の中に参入しなければ本当の老人福祉などはできないのではないかと思っています。 体が弱り、子供も巣立っていなくなり、定年で職もなくなり、連れ合いを亡くしたような老人が介護の力で福祉を享受するには何といっても食べものの力が必要なのではないでしょうか。 食を大事にした福祉こそ老人福祉の根本なのではないかと思うのです。 個人的文脈からも、社会的文脈からも、もっと力強く栄養福祉という理念を人間福祉の根底に据えねばならぬという認識の浸透が大切なのです。 そこから初めて人間福祉の地に着いた現実形成力が発現してくると思うのです。
食を通して健康になる、幸せになるという考え方はどのような食哲学、食思想、食療法、食科学(栄養学、臨床栄養学等)によって形成されまた医学的、科学的検証、社会的承認を得てきたのか。 そのことを概略ここでの栄養福祉という視点から把握する事が重要になります。 例えば、すでに西洋の哲人ルードヴィヒ・フォイエルバッハは1862年に『犠牲の秘密、または人間は彼が食べるところのものである』という考えを発表していますし、医食同源の国中国では、紀元前11世紀頃にもさかのぼる古代国家・周王朝の官制記録『周禮』のなかに明確に「食医」の職制を明らかにしています。 我が国でも、安藤昌益などという江戸時代の人は、人間は穀物の精、穀精だといっていますし、有名な道元などは「法食一如」 とまで食の大切さを述べております。 人間福祉の根本、人間存在のそのものとして食を把握しておられるようです。 われわれもこういう歴史上の賢人達の言説に謙虚に学ばねばならないと思います。 我が国のみならず中国やチベット、インド、欧米の様々な栄養学・栄養思想研究、食療法の思想史的研究も必要になってきます。
食福祉、栄養福祉という立場から現実の制度や行政がどのような実状なのかもしっかり把握しなければなりません。
前内容に関わる事ですが、制度的に、社会的に、歴史的にどのような栄養福祉の実践主体がどのような歴史的経過の中で生み出されたのか、そしてどんな働きをしてきたのか、概略われわれの視点から整理してみる必要があります。 古代社会の食医から我が国の律令国家時代の大膳職、仏道修業道場の典座職、包丁人、それは単に今日の医者、栄養士、生活改良普及員、栄養指導員、調理師といった人達ばかりではないと思います。 最近では、様々な薬膳料理家等も出てきていますし食関係の雑誌等もたくさん刊行されています。 日常的に家庭の料理を毎日作っている人も実践主体そのものです。 そういう整理検討をしながら、それでは現実状況の中ではどうなっているのか、どういう経過で栄養士が中核的実践主体として登場してきたのか、その栄養士はどういう制度、組織、職業分野で働いているのか。 また21世紀的社会現実の中で、どういう分野に今後進出しなければならないのか、ここでの観点から体系的に把握されなければなりません。
また、この実践主体論・実践内容はこの学的概念の根本的な内容になるので、ここでは出来るだけ現場的視点から食過程の全領域を見渡して、それぞれの分野で栄養福祉の観点から典型的な活動をした人物を選び出して、その人達の栄養福祉に賭けた情熱や思想、根拠、理論、実践、指導をケーススタディ的に学ぶ必要があります。 「食養生論」、「食療法」等という科目が更に必要になってくるでしょう。 尚、ここでの立場からの食の全過程とは食糧の生産、加工、流通、販売、購入、調理、消費まで、なにも栄養士や臨床医師という社会的立場にこだわりません。 広く食福祉に実践した人達を採り上げて学ぶ事が大切です。 食福祉という観点に立って、こういう環境汚染の時代、自然農法を採り入れ、安全で新鮮な食材を生産しようとしている農業者、身近なところで家庭の主婦等には栄養福祉という点で素晴らしく努力工夫している人がいるのです。 アトピー症の子供を持っているお母さんなどには、それこそ食事療法でお医者さんや栄養士の指導を受けながら、同じ立場のお母さん方と勉強会を開いて連携をとりながらすさまじい努力をしている人がいます。 とにかく、よく実践しようとする人は何よりもよく現実を正確に認識する人でなければいけないわけですから、まず以って栄養福祉活動の現実を体系的に学ばなければなりません。
前述した主体がどのような社会的教育制度で育成されてきたのか、その教育制度の変遷史というか発展史も学ぶ必要があります。 栄養福祉という理念が、社会やマスコミ文化、教育制度のなかでどのように取扱われているか。 整理してみる必要があります。
食の領域、範囲という事も考えておかねばなりません。 これは本当に広くてダイナミックなものです。 日常食から治療食、保健食、発達段階に応じた食、保存食、グルメ、食通等の世界迄広がっています。 食行動を健康食とか正しい食生活というような倫理的形式に閉じ込めてはなりません。 食養生の特殊世界では仙人食等というものもありますし、食通の世界等では、それは天にも昇る快楽幸福の境地を意味するものなのですから。 落ち込み沈み込んだ絶望の心に、たった一切れの好物のケーキがどれぐらいの復元力を持つか、本能に根ざした人間の食への意志、エネルギーを見過ごしてはなりません。 また、食という範囲も単に食道から胃袋という直線でだけはとらえられません。 食物を体内で燃やす機能は肺で摂取する新鮮な空気であることは自明のことでありますし、何よりも人間は脳器官で意味、印象を毎日食しているわけですから。 G・I・グルジェフ、C・ウイルソン、V・E・フランクルを持ち出すまでもなく、これら精神的食事がどれだけ食事そのものを規定しているか、一連の意味領域として把握しなければなりません。 人生を生きる意味、家族を愛する心、天地自然の美しさ、仕事への献身、共に道を行く仲間の存在、毎朝起きて吸う空気の新鮮さ、庭の新芽若葉の香り、これらの印象、意味という精神的食物がどれくらい食の吸収力を実存させ、その意味に向かっての実践活動がまた地に着いた運動消化力となっているか、この辺の理解をこの概念の一連の意味領域として理解しなければならないのであります。 そしてこの広い意味での食過程が安眠につながって行くというわけです。 広い意味で何を、何の為に、どのように、どれほど食するのかというのが基本的な食行動のテーマという事なのでしょう。
共同的食生活が育む人間の共同性というものも大切な認識です。 一家団欒、同じ釜の飯を食した仲間、会社帰りの仲間との一杯、忘年会、村の寄り合いでの宴会、神事の直会(なおらい)、こういった様々な宴の食文化が実際どれくらいの人間関係の共同性を作り出してきたか、今日の食生活の多様化のなかで、改めて食福祉の立場から把握し直す必要があります。 政治とは胃袋だというような興味ある概念規定をどこかで聞いた事もあるくらいです。 まとまりやチームワークに食が重要な作用をもつという事です。 個人の栄養も大切ですが、社会や集団や国家の栄養という視点も大切なのです。 人間社会の大切な共同性というものにもしっかりと栄養が行き渡っていないと乾ききった社会になってしまいます。 食こそ人間社会絆の起点であり、連帯、共同の日常的確認なのです。 食福祉という視点からの家族作り、連帯作り、集団作りが大切なのです。
栄養福祉の実践主体、担い手として中核的役割を果たすのが管理栄養士というように私達は考えています。 この国家資格を有するものが今日で言う食医というものではないかと思いますが、周王朝のそれは視点が皇帝に向いておりますからまるで同じというわけにはいきません。 しかし、食指導をする食の医者が人間福祉の実現のためには不可欠なのだという本質的メッセージだけはこの古代文献から悠久の歴史を越えて確かに受け取る事ができるでしょう。 もともとは、食を通して福祉を実現するという明確な目標をもった実学的な管理栄養士養成専門大学をつくるための理念として、栄養福祉という概念を着想しました。 そこでは、大学の目標機能、大学で学習する様々な学問の袋小路にはまって学生達が自己を見失わないための統合機能を果たすものとしてとらえていました。 けれどもこの概念は考えれば考えるほど深くて広い領域、内容を持っています。 単に管理栄養士を育てるだけではありませんし、またこの理念の実践主体が栄養士というだけでもありません。 大切な事はこの理念をしっかり踏まえた栄養士を育てるという事であります。 そして育てながらその理念を現実的に深めて行くという事が重要と思います。 そうする事によってこの理想概念の持っている意味内容、意味領域がもっともっと確定してくるというものです。 この概念は決して難解なものではありません。 この言葉を出してこれまで高校生、先生方、主婦の方、いろいろな人と話してみましたが、ほとんどこの言葉を聞いて意味不明といったような表情をした人はありませんでした。 食を通して福祉をというこの言葉は、かなり具体的、日常的な事なので分かりやすいという事もありますが、何と言っても福祉を実現する方法意識が明確なところが一番だと思います。 そして次には、こういう実践理念が何故今大切なのかという事を直面する現実状況の中で、ほとんどの人がうっすらと分かっているという事なんです。 そしてその分かりかたと言いますか、関心の有り様も決して他人事でなくて、我が身に即して考えているという事です。 少子・超高齢化社会での食問題、穀物自給率3割以下という危機的事実が示す食糧の安定供給の問題、食材の流通過程での安全面、食材料そのものの安全性、食材そのものを創造する自然条件・土、水、空気の汚れ、多様化する食生活、特にインスタントで合成添加物の食品の氾濫、小児のアトピー症、アレルギー症、喘息症から成人の生活習慣病にいたるまで食物・食事療法の大切さが科学的、医学的に論証されてきている事、薬だけに頼る医療は危険な事、できれば時間がかかっても自分の身体で、意志力で自ら食を通して自力で健康をつくる事、税金で賄いきれないような膨大な医療費(平成9年度の国民医療費は約29兆円)、こういうような事を大概の人はこの情報化社会の中で知っているのです。 学者や専門家のように体系的科学的には承知していなくても「庶民的勘」、生活者の勘というもので知っているのです。 そういう意味でこの概念のフレームは大体のところ分かりやすいものであります。 栄養福祉、食福祉と言っただけで、もう意味領域、意味内容が大概の人には浮上してきます。 この概念で、この理念の立場で包括的につかんで行動しなければならない対象はこれまで述べてきた事で大体明らかになった事と思います。 各個的に、部分的にはいろいろな視点から今まで見てきたものは論じられ採り上げられてきたものと思いますが、この概念の背丈に立って、この概念の提起によって、一つの意味のセットとして、一連の意味領域としてより実践的展望を拓く事が大切なのではないかと考えます。 この意味領域を意識的、体系的に把握理解する事によって得られる認識の力、そしてそれを社会が共有する事によって生じる現実形成力、それこそが今必要なのではないでしょうか。
最後にこの概念の実際性、行動性、実践性という事についてですが、言うまでもなく実学的性格を持っています。 カール・ヤスパースの大学の理念によるならば「実際的諸科学」というような範疇に入るのかと思っています。 食物栄養学部という教科目体系、医学的知識、社会福祉や栄養福祉の理念を修得しても、この概念の持つ実学的情熱が欠落したのでは画竜点睛を欠くという事になってしまいます。 この概念には様々な学問を統合し食を通して人間の健康と幸福のために実際に身体を動かして役立つという思想情熱が組み込まれています。 従って、いくら食や医学や福祉の知識があっても実際にその知識、学問を現実状況の特定の具体的個人に向かって、実際に献立を作って食べさせるという所にまで貫かれていなければ全くの観念論に終わってしまいます。 食べさせて、その個人の心の中に、実際に「福祉」の心を実存・発生させるという所まで行かなければ、栄養福祉の理念などは実現できないのであります。 栄養福祉の理念等分かっていないという事になります。 そしてこの場合何よりも大切な事は、その実践力が個人的レベルだけではなく社会的関係性としっかり噛み合っているという事なのです。 この学的概念が強力な行動性、実践性、実際性を下敷きにしながらも、あえて福祉という言葉を以って社会的使命感に向かっている所以なのであります。 従ってこの実学性というものを真剣に学んだ人は自分や自分の職場的実践だけではなく管理栄養士としての使命感をしっかりもって、いわゆる栄養福祉実践主体の中核として、その理念実現を目指して様々な人達と交流しネット作りをしていかなければなりません。 個々人の趣味的実践では到底その理念の実現には程遠いからであります。 栄養福祉という理念は個人的レベル、社会的レベル、国家的レベル、国際的レベルの各レベルで考えられなければならないという認識であります。 これからの栄養士はグローバルでトータルな食過程を踏まえて、この4レベルを統合する視点・見通しを持った実践家であらねばなりません。 高い世界生活者的教養を持った行動者でなければなりません。 しかし、とは言っても、高いミッション性をおびた行動者は、何よりまず一身上のレベルで理念に対する情熱的な受け入れ・感応という鮮烈な発火点が実存しなければなりません。 心と身体の双方にわたってです。 そのためにこそ栄養福祉の思想や哲学、社会福祉の理念、実践主体の方法論が歴史的現実の中で学ばれなければならないのです。 カリキュラムが個別科学のばらばらな展覧会に終わってはいけないのです。 そうでなければ、これまで述べてきたような21世紀社会の福祉上の大問題・大課題を、栄養福祉の方法と使命感で支え続けてゆくのだというような人材が本当に育つはずがないからであります。 この理念の下に今出来つつある九州栄養福祉大学のカリキュラムは卒業後の職業的実践と対応する履修上の4コースを設定していますが、この学校の卒業者が以上述べてきたような信念を持った食医・食の番人となって世界に羽ばたいて、実践現場、職業分野を開拓し、近い将来、この履修課程枠を拡大充実させていく事と思います。 食問題こそ新世紀人類の最大課題というような識者も最近ではそう珍しくなくなった今日、何といってもこの理念に勢力、生活基盤に即した現実形成力を持たせたいと思うわけです。
以上、様々な視点から栄養福祉の概念を説明してきましたが、この理念実現のためにはまず個人が、そしてその個人が働く、関係する集団が元気でなければなりません。社会的レベルがこの理念で変革しなければ到底いくら福祉国家といっても上からの指導だけでは「福祉」は活性化できないからです。 そういう意味でこの理念が私学の建学の精神として担われるというところに一つの強い意義を感じさせられます。 財源では乏しいけれども、私学のもっている在野性、実学性、民間からの教育的役割宣言、柔軟なカリキュラム、そして何よりもそれらを包含した建学の精神とこれに呼応する教職員・学生・卒業生、これらがこの理念を必ず実現し、少子・超高齢化社会という21世紀の未曾有の大社会変動期に大きな役割を果たすことを念じながら栄養福祉概念の大枠設定作業をひとまず終わらせて頂きます。 九州栄養福祉大学設立のあわただしい中での作業ゆえ、あるいは重要な柱の何本かを見落としているかもしれませんが、それは後日また補強して行きたく考えております。 我々の理念の足りない所は、いずれ、この我々のメッセージを受信した学生諸君が、我々の理念を共有する同志が、共鳴して結集する教職員が必ずおぎなってくれるものと確信しております。 尚、こういう内容・性格の論文につき、ここでは参考文献などの記載は省略させていただきます。 別な機会に添付いたしたく考えております。ご了承願います。
(平成11年6月2日 脱稿)
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